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こんばんは。パートナーシップ心理学アカデミー 代表 湯川央恵です。
今日は1年ぶりにマックに行き「サムライバーガー」をいただきました。肉肉しくって美味しい♡
無価値観ー家族の世話を手放せない
さて、今日は、夫や子供の世話がやめられない方からの相談です。
いつもメルマガを拝読しているT(43歳)です。
パートをしながら夫の世話、子供の世話をやっています。子供は高校2年生と中学2年生。
もう大きいので任せられるのですが、どうしても手出しをしてしまいます。主婦として当たり前のことをやっていると思っていました。
でも「何で私ばっかり」という思いが湧いてくることが多くなってきました。じゃあやめればいいじゃん!と思うのですが、どうしてもやめられないのです。
考えると、私から夫や子供の世話を取ったら、何も無くなってしまう「価値がない人」になってしまうと思っているのでは?と思いました。
それに気づいた私は相当ヤバい人かもしれないと思っています。
よかったら、ご助言いただけないでしょうか?
無自覚の思い込みにはなかなか気付けない
Tさん質問ありがとうございます。
ご自身がやっていることを、そんなふうに客観視されたのですねー。すごいです!
普通こういうのは、なかなかわかりません。
なぜならTさんも書かれているように「主婦として当たり前」という前提があると、自分のやっていることを立ち止まって考えることもしませんから。
ベルトコンベヤーのように、自動的にそういう振る舞いになってしまいますからね。
わかっているのにやめられないのは、そこに痛みがあるから
詳しくはセッションしてみないとわかりませんが、お子さんがそこそこ大きいけど、任せられない。そして夫の世話も甲斐甲斐しく焼いてしまうということですね。
それに「なんで私ばっかり」と思ってしまうということは、自分のことより家族、というように「自己犠牲的に奉仕」されているのかもしれませんね。
これ、なんで、そこまでしてしまうのか?というのがポイント。
「じゃあやめればいいじゃん!」と思うのですが、どうしてもやめられないのです。
ここですよね。
わかっているのにやめれない。
やめることで何らかの「痛み」があるのです。
自己犠牲を払う代わりに愛をもらう取引
自己犠牲的に奉仕しないとTさんの場合「価値がない人になる」と感じられているのですね。
価値がない自分は、どうなるのでしょう?
これを考えてみてくださいね。
ここでは仮に「価値がない自分は愛されない」とTさんが思っているとしましょう。
そうであればTさんは「自己犠牲を払って愛情を得ている」ということになります。
つまり自己犠牲を払うかわりに愛情ちょうだいね、という「ギブアンドテイク」の取引関係になっているってこと。
つまり「自己犠牲を払わないと愛は得られない」という思い込みがありそうです。
自己犠牲の代償で愛がもらえるロジック
そうなると、相手に自分の時間なり労働なり知識なりお金なりを与えるのみならず、自己犠牲を払って、ようやく欲しい愛情が得られる現実が繰り広げられてしまうわけですね。
取引関係なので、夫や子供の世話を焼いて、自分を犠牲にしない限り、愛情が得られない、というロジックになるわけです。
そしたら、頭で「世話を焼きすぎかも」と思っても、それをやらないと
「嫌われてしまうかも」「見捨てられてしまうかも」と思うと、決して自己犠牲をやめられません。
さらに相手は、犠牲的に世話されることに慣れてくるので、ちょっとやそっと世話しても、Tさんの望む愛情は得られなくなります。
むしろ家族からは「足りない」と不満を言われるようになるでしょう。
内的世界とリンクするように外的世界が現れるー自己犠牲を払わないと愛が得られない現実
それは相手に問題があるのではなく、Tさんの内的世界に「自己犠牲を払わないと愛は得られない」があるから。だから外側の世界がそうなってしまうんですね。
不満を言う夫や子供を、変えようとするのではない、ということですね。
すべて自分の内的世界の投影だからね。
解決方法
じゃあどうしたらいいか?
そもそも「自分は自己犠牲を払わないと愛されない」と思ったその部分ですね。
そこを変えない限り「自己犠牲を払わないと愛されない」現実を何度も何度も体験することになります。
なので「自己犠牲を払わないと愛されない」と、思いこんでしまった子供の頃の思い込みを修正する必要ありますね。
子供の頃の狭い視点からみると「犠牲を払わないと褒めてくれなかった」と思った出来事があったかもしれません。
そして、自分の思うように愛されなかったことで、そのように思い込んだ可能性が高いかと。
最初にお伝えしたように、人によって中身は変わってきます。わかっている情報だけでお伝えしました。
より詳しく学びたい方は、単発コンサルティングをどうぞ!
湯川央恵