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なぜあなたは愛されていることを信じられないのでしょう?
なぜ「そんなことないっ!」と言いたくなるのでしょう?
今日は先日お送りしたメルマガ記事「千と千尋の神隠し」の映画から、もう少し深掘りしていきましょう。
千と千尋の神隠しー両親がブタになったホントの理由
さて昨日お送りしたメルマガ「千と千尋の神隠しー両親がブタになったホントの理由」に感想を頂きました。
まだ読んでおられない方はコチラ
欲しいものを与えてくれない=愛されていない!?
「行きたい方向や目指したい方向に行けばよい、それを自分の責任で決めて行くこと。
今日のメルマガで湯川先生が言われたかったことは、シンプルにこれかなと思いました。
「ブタのくだりに、ハッとしました。飽くなき欲求はブタと同じですね。
それを当り前のように持ち、叶えてくれない夫にイライラしていました。」
他にも頂きました。本当にありがとうございます。
二人目の方も書かれているように「飽くなき欲求を叶えてくれない夫にイライラ」されているという方は、本当に多いです。
つまり欲求を叶えてくれること=愛されている というふうに思っていないか?ということですね。
だとするなら叶えてくれない=愛されていない、ということになってしまいます。
ブタに象徴される「貪る思い」を持っていないか?
さらにこのブタの如く貪る思い、というのは、夫との関係性がうまく行ってなかった、当時の私が持っていた思いそのものでした。
「もっとこうしてもらうべきだ」と思い、それを叶えてもらうと今度は「いや、これが出来ていない」と次から次へと要求していたんですよね。
あ、直接言葉で要求したのではなく「心の中」でしたけどね(苦笑)
相手のやることにケチをつけたい気持ちも貪りの一種
そうやって相手のやっていた事にことごとく「ケチをつけていた」訳ですよ。「それじゃだめ」「足りない!」とね。
まさに貪っていたんですよね。
それすらも気づかないくらい、自分にとっては当り前のことだったんですよ。あー、恥ずかしい〜。
つまり自分が納得する形でなければ決して満足しない。
仮に満足したとて、次の足りない点を見つけては「もっとできるでしょ!」「私が求めているものはコレじゃないの!」と要求していたってこと。ひゃーっ!
欲は持つとダメなの?ー欲の取り扱い方
昨日も言いましたが「欲」自体はオッケーなのです。
でもその欲を満たしたいのであれば、待っているだけや貪るのではなく、自分でエネルギーを出して行きましょうね、ってことね。
つまりあの事例では『欲を叶えたいなら他人から貪るのではなく、自分自身がエネルギーを出して叶えていこう』ということを言いたかったんですね。
自分は何者かを忘れちゃいないか?
まー、あの映画はそれ以外でも、非常に示唆に飛んでいる作品だと思います。
千尋のお父さんとお母さんが、徐々に身も心もブタになり、自分が何者だったかすらも忘れて行くくだりがありました。
千尋も湯婆婆から「千」という名前をもらう事で、千尋の記憶がどんどん無くなっていきましたね。
私達も親から愛され大切にされて育って来たのに、徐々に勝手な思い込みを持ち、愛されたことなど忘れ、親を責める思いや、もっとやって欲しかったという思いを持ってしまったかもしれません。
まさに千尋自身が「千尋」を忘れ、知らぬ間に「千」になりつつあったように、私達は元々持っていた愛を忘れ、違うものになりかけていたのかもしれません。
でもね、思い出して欲しいのです。
私達がこうして今生きていられるのは、紛れも無く、愛されてきたから。
親をはじめ、周りの人からの溢れんばかりの愛があったことを。
その愛を一身に浴びてきたからこそ、さらにその上の要求が言えるのだということを。
それを思い出して欲しいのです。
思い出せたら、自分が「どれほどの愛に包まれていたのか!」ということに、本当の意味でようやく気づけると思います。
まさに見えなかった目が見え、聞こえなかった耳が聞こえ、見えていなかった目が見えるように。
今日の湯川からの一言 「あなたが今存在しているのは、愛されたという動かぬ証拠」